このページでは、過去に茨城県報に登載された告示等のうち、県道の認定・廃止・変更や国道の区域決定等の告示以外で筆者が見つけた道路関連の主なものを掲載します。
告示等の表記法について、および更新履歴については、本ページの1つ親のページである茨城県報 過去の主要告示一覧のページを参照してください。
道路元標とは、大正9年4月1日に施行された旧道路法に基づき、各市町村に1か所ずつ設置された石柱で、道路の基準となる位置を指し示す性格を有していたものです。同法の施行日、あるいはその前後に、各都道府県において市町村ごとの道路元標の位置を定める告示がそれぞれの公報に登載されました。(道路元標に関しては、インターネットのウェブ上でもいろいろな方が詳しく解説されていますので、そちらもご参照ください。)
茨城県においても、各市町村における道路元標の位置を制定する作業が行われ、旧道路法の施行を10日後に控えた大正9年3月22日、「市町村ニ於ケル道路元標ノ位置」が告示されました。そして4月1日の旧道路法施行により、それ以降に認定された茨城県道においては、県道路線の起点や終点は多くの場合に道路元標の位置とするよう定められたのです。
戦後、現行の道路法が施行されたのに伴い、旧道路法に基づく道路元標は道路の基点としての意味を持たなくなったため、茨城県においては昭和37年2月12日に「市町村ニ於ケル道路元標ノ位置」の告示は(他の36件の告示と一括して)廃止されました。
ここでは、大正9年3月22日の茨城県告示第117号「市町村ニ於ケル道路元標ノ位置」、および昭和37年2月12日に登載された茨城県告示第122号「告示の一括廃止」の全文を掲載します。
発行日 | 内容の概略 |
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大正9年3月22日 | 「市町村ニ於ケル道路元標ノ位置」の告示 |
昭和37年2月12日 | 告示の一括廃止(「市町村ニ於ケル道路元標ノ位置」の廃止を含む) |
常総船橋は、かつて利根川に架けられていた仮設橋です。県道江戸崎下総線の橋として、茨城県河内村(現・河内町)と千葉県下総町(現・成田市)とを結び、現在の常総大橋が完成する前に、それとほぼ同じ場所に昭和42年から昭和50年頃まで存在していたそうです。千葉県成田市の広報誌「広報なりた」2006年1月15日号に常総大橋について記述された文章があり、その中で常総船橋についても触れられている部分があるので、以下に引用します。
利根川と常総大橋 昔は水運、今は交通の要衝
〔中略〕
下総町の高岡地区と茨城県河内町を結ぶ常総大橋は、昭和54年2月に開通した長さ518mの橋で、両県を結ぶ交通の要衝です。命名は常陸国と下総国に架かる橋にちなんで名付けられました。
この橋が完成する前は、両県を結ぶ交通手段は、もっぱら渡し舟に頼るしかありませんでした。
昭和42年12月、下総町猿山と河内村金江津(かなえつ)間に架けられた全長263mの常総船橋は、鉄でできた船20隻を連ねた上に板を敷いた橋でした。徒歩で渡る場合は無料で自転車・自動車・バスなどは通行料が必要でした。しかし、利根川が増水する6月〜10月までの4カ月間は、板が取り外され渡し船で行き来をしました。
その結果、両県の交通が阻まれ地域開発の大きな障害となり、永久橋の早期建設が叫ばれ、昭和47年から7年の歳月をかけて常総大橋が完成しました。
〔後略〕
茨城県では、この常総船橋が開通する少し前に、この橋を渡るための通行料等を定めた条例と規則が制定されました。そして8年後にこの橋が廃止になったのに伴い、この条例と規則も廃止になった模様です。その条例および規則をここに掲載します。
発行日 | 内容の概略 |
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昭和42年10月14日 | 「利根川の船橋及び渡船施設通行等の料金徴収条例」の公布 |
昭和42年11月13日 | 「利根川の船橋及び渡船施設通行等の料金徴収条例施行規則」の制定 |
昭和50年12月26日 | 同条例、および同規則の廃止 |