2001年5月3日 作成
ある日、家でいつものように茨城県道路地図を眺めていたら、水戸市街に妙な県道があるのを見つけました。
水戸市中心部から少し東側に、どう見ても住宅地の路地みたいな道をカクカクしながら南北に通っていて、那珂川を「寿橋」なる橋で勝田方面へ渡って終わる短い県道。その名は「県道253号 水戸枝川線」。興味が湧いてきたので早速電車で行ってみる事にしました。
2001年4月22日、水戸駅に降り立ち、平磯(那珂湊)行き茨城交通バスに乗りました。茨城交通のバスに乗るのは初めて。バス停を告げるアナウンスのテープの回転が少し速いらしくて、テープの女性の声が安物のロボットみたいな変な声になってて、バス停が来る度に私は笑いをかみ殺してました。
さて、途中の「茨交ショッピングセンター浜田前」バス停で降り、県道253号起点の「東桜川」交差点に到着。
ここから約200メートルの区間は県道174号(小泉水戸線)と重用になっているらしいです。
しばらく県道174号を歩くと「浜田二丁目」交差点に到着。しかし周辺には県道253号(水戸枝川線)の分岐を示す案内板は皆無でした。
ここを左折するといよいよ実質的な水戸枝川線が始まります。
浜田二丁目交差点を左折すると、早速ヘキサ発見!
ちなみに高架になっているのは鹿島臨海鉄道。
しばらく歩くと、橋の車重制限標識とともに前方ではセンターラインが消滅。
さっそく怪しくなってきたぞ。
これが新町橋。そんなにボロくもない。水戸市民の憩いの場である千波湖から流れてくる桜川にかかる橋です。
うららかな春の日曜日の昼下がり。橋の下では爺さんが釣りをしていました。
橋を渡ると踏切。ちょうど特急フレッシュひたち号が轟音をたてて通過していきました。
それにしても超ローカルな鹿島臨海鉄道が高架になってるのに、天下のJR常磐線が踏切だなんて…。
踏切を越え、なんだか高級住宅街の趣をかもし出してきました。
この辺に住む人々は、果たしてこの道が県道であることを意識して毎日の暮らしを営んでいるのであろうか…。
しばらくすると最初の曲がり角。ここを右折します。角にある緑のデカい建物が「補修センター笹本」。
赤い丸の部分を拡大すると…。
なんと、こんな狭い道を路線バスが通っている。運転手さんも大変だなあ。
写真を撮っている私の方を、婆さんがけげんそうに見ている。
くどいようだが、ここはれっきとした県道なのだ。
しかしそれにしても、どこにでもある住宅地の路地と全く変わらなくなってきた。
車通りもほとんどない。
道端に立てられていた道標。こう書いてあります。
「旧町名 細谷本郷町 昭和五十五年一月 細谷本郷町町名廃止 昭和六十二年一月設置 水戸市」。
なるほど。
うひょー、懐かしい。
この県道の沿線は、ほとんどが高級住宅地の雰囲気なのですが、時折こういった古い雰囲気の家もあり、どういう経緯がある県道なのかますます分からなくなってきました。
隣の市民運動場では、快晴の日曜ということもあって子供たちが野球をしていました。
しかし私は野球見物どころではありませんでした。この謎を解明しなければ…。そしてなんとか県道水戸枝川線を踏破しなければならないのだ…。
那珂川を渡ってひたちなか市に突入。
そしてとにかく反対側の岸の所まで行ってみることにしました。
岸の反対側にやってきました。
向こう岸に、先ほどまで私が立っていた通行止地点が見えます。
近くに「陸上自衛隊 枝川渡河演習場」がありました。どうやら河を渡る訓練をする演習場のようです。
前のページの腐った看板はこのことだったのか、ということは分かったのですが…。
鉄条網の外から中をのぞいてみたのですが、なんだか使っている気配がないみたいなのです。
何となくうらぶれているっていうか、建物も朽ち果てているっていうか。
那珂川支流の鳴戸川にかかる鳴戸橋。地図ではこの橋が県道水戸枝川線になっています。
なんだか古い由緒ある橋のようにも見えますが、なんといってもここは土手の内側! いわゆる河川敷なのです。
それに橋のたもとのカーブミラー、いったいどこを見とるんじゃ。こんなとこ交差点もカーブもないよ。
えっ、こんな土手の内側の河川敷が「スクールゾーン」?
だって周囲には家なんて1軒もないよ。あるのはさっきの自衛隊演習場だけ。
野原の真ん中にぽつんと立っている標識。
なんだかゴーストタウンの様相を呈してきました。謎は深まるばかり。
地図の通りに県道を歩くと、ここで土手にぶつかってしまいます。
道なき道を歩く、とは正にこのことだ。
土手の上から水戸枝川線を眺めた図(写真2枚を結合)。地図上では土手はないものとされており、ちょうど電線が横切る辺りに沿って県道が通っているはずなのですが、ご覧の通り完全に土手がさえぎっており、写真右側の土手内部が河川敷化されています。古風な鳴戸橋も割れたカーブミラーも、スクールゾーン標識もすべてこの河川敷内部にあるのです。(なお手前から奥に延びている舗装道路は県道とは無関係。)
私はこの県道を「土手越え県道」と命名したいと思います。
いつまでも河川敷にこだわっていても、らちがあかないので、気を取り直して歩を進めることにしました。
すると、土手のすぐ外側にこんな小さな神社が。
ひたちなか市側の道は水戸側とうって変わって古風な家並みが目立ちます。
上の神社といい、やはりこの県道は由緒ある道なのだろうか。
あったー! 県道253号(水戸枝川線)のヘキサ。この道で良かったんだ。これを見てほんとにホッとしました。
ヘキサが人をホッとさせることができるなんて、ヘキサの持つ力は偉大だ。
しばらく歩くと、めでたく県道232号(市毛水戸線)との交点にたどり着きました。
ちなみにこの交差点も周辺に案内板は皆無です。水戸枝川線は、まさに「忘れられた県道」の名にふさわしいのではないでしょうか。でもまあ、ヘキサが2本だけでもあったから良しとしましょう。
正確には県道253号は、この後県道232号と約200メートル重用し、県道63号(水戸勝田那珂湊線)と交わる「卸売市場入口」交差点にて終点となるらしいです。
起点の「東桜川」交差点から正味2時間。困難を克服し、達成感に満たされた私は、この後「枝川」バス停からバスに乗って水戸駅へと帰りました。春のうららかな日曜日の1コマでありました。(おわり)
その後、いろいろと本で調べてみました。
実はこの道、昔の国道6号だったのです。
大正元年11月15日、水戸市ではホラ貝の合図とともに朝から100発の花火が上がりました。それまで渡し舟に頼っていた那珂川に、陸前浜街道で初の鉄製の橋「寿橋」が完成し、その開通を祝う式典が行われた日でした。市長らの渡り初めが終わると、見物していた群集が我も我もと一斉に押し寄せ、橋の上は身動きが取れなかったほどだったそうです。以来この道は、国道(大正9年から国道6号に指定)として、東京と東北太平洋岸を結ぶ大動脈を支えたのです。
しかし、昭和7年5月、上流に水府橋が完成し、国道6号の座を明け渡すこととなりました(現在の県道232号 市毛水戸線)。現在ではさらに国道6号バイパス(水戸大橋)が完成し、物流の主役に収まっています。
茨城県に住む人は記憶に新しいと思いますが、平成10年8月、東北南部から関東北部を集中豪雨が襲いました。那珂川は氾濫。水戸市やひたちなか市周辺でも大規模な床上浸水に見舞われました。そんな中、那珂川の怒涛の泥流に耐え切れず、平成10年8月28日午前4時8分、ついに寿橋は流失したのです。
私も実は当日、北海道旅行の帰りで東北から東京に向かう車に乗っていたのですが、郡山近辺で何時間も足止めを喰らって散々な目に遭ったのを覚えています。今にして思えば、一度でいいから、歴史をかみしめつつ、在りし日の寿橋を自分の足で渡ってみたかったなあ、と思います。
当時私が歩きながら持っていた地図は「スーパーマップル茨城県道路地図」でした。この地図には何のためらいもなく寿橋が今でも描かれています。2001年5月発行の版でも修正されてないようです。もう3年も前に流失したのになぜそのままなんだろう?
本屋で「ミリオン茨城県道路地図」を立ち読みしたら、こちらは寿橋は消されていますが、土手はやっぱりないものとされて道が描かれているようです。