守谷流山線(旧道)ぶらり旅

2002年7月24日 作成

このページの目次


県道47号(守谷流山線)ヘキサ
県道47号 守谷流山線
旧道起点: 北相馬郡守谷町大字守谷字新屋敷甲3489番3地先 一般国道294号分岐から
旧道終点: 取手市大字戸頭字西下2377番 県界まで
新道起点: 北相馬郡守谷町大字守谷字新屋敷甲3489番1 一般国道294号分岐から
新道終点: 取手市大字戸頭字西下2319番地先 県界まで(新大利根橋)
総延長: 6,684メートル

(1) 大規模団地を往く

県道47号(守谷流山線)は、茨城県南部の守谷市を起点にし、新大利根橋有料道路で利根川を渡り、千葉県の流山市へ至ります。

守谷市の位置図

新大利根橋有料道路は1980年に開通し、現在はこの地域における茨城県と千葉県の関係が密接になりましたが、この橋が開通する前から県道は存在し、旧道が別ルートで存在していました。この旧ルートは現在の県道と同じ位置から始まり、クネクネとしたルートを経由して、利根川の縁でぷつりと途切れています。旧道区間にも昨年までヘキサが立てられていました(私の知る限り4本)。

しかし残念ながらつい最近、2001年11月19日付の茨城県告示により、このルートは県道としては廃止になり、降格になった模様です。これを機にこのルート上にあったヘキサもすべて取り外されてしまいました。(ただし、現在市販されている道路地図などでは、まだこの降格状況が反映されてなく、旧道のルートを確認することができるものもあるようです。)

今回は、降格になってしまった県道守谷流山線の旧道を歩いて探訪し、ありし日の県道の雰囲気を味わいたいと思います。


県道守谷流山線の周辺図
県道47号(守谷流山線)の周辺地図。(MapFan Webで表示: MapFan Web)

乙子(おとご)交差点の案内板

まずは関東鉄道常総線に乗り、南守谷駅で下車。駅のすぐ前を国道294号が鉄道に平行して通っています。国道294号を少し歩くと、すぐに県道守谷流山線の起点「乙子」(おとご)交差点に到着しました。ここで右折すると、現在の新しい県道47号(守谷流山線)になります。

この案内板を見る限りは、この交差点は通常の十字路のように見えますが、実は斜め右上にもう1本細い道が交差しており、この細い道が目的の県道守谷流山線の旧道です(左の写真で私がピンク色で矢印を書き足してみました)。

乙子(おとご)交差点

起点の「乙子」交差点の様子。右手前から左奥に伸びる道が国道294号。

県道守谷流山線の旧道は、ここから正面の奥にのびる細い道です(左の写真では小さくてわかりづらくてすみません)。

車でこの道に曲がることは可能ですが、慣れないとちょっと分かりにくいかも知れません。

では、この旧道へと歩を進めましょう。

のどかな道

さっそく、県道とは思えない、のどかな雰囲気の道になりました。

この付近の沿道は、昔ながらの民家、新築間もない住宅、そしてネギ畑が交互に点在する道になっています。

先ほどまで私がいた国道294号の自動車の音がここまで聞こえてきますが、ここは国道の喧騒とは無縁。別世界のようです。

住宅地に差し掛かってきた辺り

しばらくすると住宅地にさしかかってきました。ここからは歩道が設置されていて安心して歩けます。

ここからは大規模な住宅街「戸頭(とがしら)団地」の始まりで、住宅地の中の生活道路となります。

付近の住民の方々は、この道が昨年まで県道で、降格になったことを果たしてご存知でしょうか。

並木道になった道路

住宅地の真ん中で、県道守谷流山線(旧道)は広い道にぶつかり、ここを右折して雰囲気を変えます。

戸頭団地の中を通るセンターライン付きの並木道になります。

沿道には寺島薬局という店があり、ティッシュやビールなどが安いです。

とがしら公園

茨城県道としては似つかわしくない(?)広くて洗練された並木道をさらに歩くと、左手には大規模な集合住宅群が見えてきて、右手には「とがしら公園」が姿を現します。

この公園は1978年完成。戸頭地区の人々の憩いの場になっています。

私はここまでかなりの距離を歩いて疲れたので、ここで休憩することにしました。

とがしら公園は非常に広大な美しい公園で、風景の写真をたくさん撮ろうと思ったのですが、子供たちがたくさん遊んでいたため、カメラを向けると変な人に間違えられるかも、と恐れて躊躇しました。

常総ふれあい道路にぶつかるT字路

「とがしら公園」で疲れをいやした後、すぐに「常総ふれあい道路」という名前の幹線道路にぶつかるT字路になります。(案内標識の拡大写真)

T字路の正面で私を迎えているのは、中古車販売店「TAX ナオイオート」

常総ふれあい道路は県道ではありませんが、取手市と守谷市を結ぶ郊外型幹線道路で、近年は大型ショッピングセンターが林立し、交通量も多い道路になっています。

我々の目的である県道守谷流山線はここで左折し、常総ふれあい道路とほんの少しだけ重複し、すぐに利根川の河畔へ向けて再び分離します。

この日は夕方で、だんだん暗くなってきたので、今回の旅はここまでにして、残りは別の日に行うことにしました。


(2) そして末端へ

日を改めて、県道守谷流山線(旧道)の旅を再開しました。

前回に歩いた道は今まで何回か車で通ったことがあり、なじみの深い道だったのですが、残りの区間である常総ふれあい道路との分岐から利根川べりの末端地点まで通るのは今回が初めてです。

常総ふれあい道路

期待を持ちながら、前回に旅を中断した常総ふれあい道路との交点にやってきました。

手持ちの道路地図である昭文社のマップルによると、県道は常総ふれあい道路と300メートルほどだけ重複し、戸頭中学校の前あたりから分岐することになっており、その通りに歩いてみました。しかし県道を示すものはなく、私はどうも様子がおかしいと感じました(県道的嗅覚とでも言えばよいでしょうか)。マップルがもしかして間違っているかも知れないと思い、付近の道路をいろいろ歩いたところ、次の結論に達しました。

県道との分岐点

私の結論では県道の分岐点は左の写真の地点。常総ふれあい道路との重複はわずか50メートルほどだけで、中古車販売店「TAX ナオイオート」の角(カメラのキタムラの向かい)からすぐに県道は分岐する、と推定しました。

その根拠の1つは、県道側から見た分岐点に古ぼけた由緒正しそうな方向案内標識があったこと、もう1つは、分岐した道の側溝に「茨マーク」があったことです(「茨マーク」は私が勝手に作った造語です。説明は用語集のページを参照して下さい)。

この分岐点に信号はなく、車でトレースしようとするとかなり難しいかも知れません。

分岐点を常総ふれあい道路の方から見る

分岐点を常総ふれあい道路の側から見た写真。

どへー、狭い。

分岐した県道に少し入った所

県道に入って少しして写真を撮影しました。

通常は道路の両脇に側溝があるものですが、この道はあまりに狭すぎるのか、道路の中央に側溝が延びています。

永蔵寺(えいぞうじ)のとても大きな木

しばらく歩くと、道に沿った場所にお寺があり、とても大きな木がそびえ立っていました。永蔵寺という名前のお寺です。

巨樹の写真を撮ろうと思ったのですが、あまりに大きくてなかなかカメラに入りきらず、かなり後ろに下がって見上げるようにして何とか写真に収まりました。

長く歩いて足が疲れていたので、ここで少し歩を休め、巨木にしばし見入りました。

古来の雰囲気になってきた県道

さらに、県道のまだ見ぬ末端へ向け、歩きます。

前ページで紹介した大規模住宅地の「戸頭団地」の面影はもはやどこにもなく、すっかり昔ながらの民家が立ち並ぶ懐かしい雰囲気が漂う道になってきました。

ひょっとしてこの道は由緒ある街道なのではないか? そんな思いが頭をもたげ始めた頃でした。

この思いは後に肯定的に解決されることになります。

戸頭神社の鳥居

次に目がとまったのが、この「戸頭神社」です。地図にもこの神社が書いてあったのですが、思っていたよりかなり大きい神社でした。

とりあえず三十円を賽銭箱に入れておまいりし、神社の中をブラブラしました。そうしたら1つの石碑におおよそ次のようなことが書かれていました。要約して紹介します。

戸頭神社は1352年(観応三年)創立。足利尊氏が天下安泰を当社に祈願した記録がある。

当地は往時より利根川沿岸の交通の要衝として船付場および渡船場(七里ケ渡し)が設けられ繁栄した。

社殿が老朽化し、改築の必要が生じた状況の中、茨城県道路公社が新利根川橋を建設するため、当神社の土地の一部を買収した。そこでその代金を用いて当神社の改築を行うことができた。正に感激の極みである。

やっぱりそうだったのか! 私が今まで歩いてきた県道守谷流山線の旧道は、古くからの街道だったんだ。私は碑文を読みながら感激しました。

戸頭神社の向かい側にあった石碑

さらに、戸頭神社の向かい側の分かれ道には左のような小ぢんまりした石柱が立っているのを見つけました。文字はかなり読みにくかったが、柱の4つの面にはそれぞれ以下のように書かれていました。

  • ← 野々井稲ヲ経テ取手町ニ至ル 八粁 約二里
  • → 戸頭渡船場ヲ経テ千葉縣ニ至ル 二、二粁 約二十丁
  • 稲戸井村青年会戸頭支部
  • 昭和六年四月建之

なお、「稲戸井村」は当時のこの辺の村の名前(現在は取手市に編入)、「野々井」「稲」は現在取手市の大字名になっている町名です。

これで完全に確信が持てました。この先には利根川を渡り千葉県と茨城県を結ぶ渡船場がかつて存在し、県道守谷流山線は昔から人々の往来があったことになります。

草原が遠くに見えてきた道

私は今まで以上に県道の味をかみしめながら、一歩ずつ歩みを進めました。

さてついに最後の民家となり、正面には青々とした草原の向こうに利根川の土手が見えてきました。

草原の入口にある小さな橋「前掘橋」

草原への入口で私たちを待ち構えていたのは、車1台がやっと通れそうな小さな橋。これはすぐ近くで利根川に合流する大野川という小さい川にかかる橋で、欄干(というよりガードレール)に埋め込まれた銘板には「前掘橋」と書かれていました。

ちょっと不思議な名前だと思いました。お堀の「堀」を使った「前堀橋」ならありそうな名前だけど、こちらは地面を掘るほうの「掘」なのです。

草原地帯をかきわける県道

草原地帯に突入。まるでジャングルをかきわけて進んでいるような気分になってきました。

県道の末端へ向け一路歩きます。

土手を駆け上がる所

ついに舗装がとぎれてダートに。ゴールはもうすぐ。

土手を駆け上がると…。

ゴールの利根川の土手

利根川の土手の上に立ち、念願のゴール! 県道守谷流山線(旧道)ぶらり旅は終わりを告げました。

利根川はあまりに壮大な川なので、ここからは川の水面はほとんど見えず、河川敷の姿だけが見えます。川を挟んではるか彼方には千葉県の様子も見えました。

周辺には、昔ここが渡船場だったという証となるものは見当たりませんでした。あまり詳しく探さなかったので、もしかしてあったのかも知れませんが…。

遠くに小さく見える赤い橋は、現在の県道守谷流山線である新大利根橋です。


(3) エピソード集

以上で「県道守谷流山線(旧道)ぶらり旅」は終わりですが、非常に楽しい道だったので、その後この県道の由来や沿道のエピソードなどを少し調べてみました。

以下余談になりますが、興味のある方はおつきあいください。


エピソード1: 守谷道と七里ケ渡し

取手周辺の街道
取手周辺の街道(取手市史 通史編Ⅱ p.129より)

茨城県南部を通る街道としては、水戸街道が有名です。この街道は我孫子宿(現・千葉県我孫子市)と取手宿(茨城県取手市)の間で利根川を渡り、現在の国道6号とだいたい経路が一致しています。しかし江戸初期の頃の水戸街道はそれよりかなり東側で利根川を渡っていたようです。すなわち、布佐(千葉県我孫子市布佐)と布川(茨城県利根町布川)との間、現在の県道4号・千葉竜ケ崎線の栄橋の付近です。取手は当時は湿地帯であり、水戸街道は当初は取手を通っていませんでした。

水戸街道が取手を通るようになったのは、天和から貞享年間(1681〜88)にかけての街道付け替え後です。これによって取手は江戸から6番目の宿駅となりました。

一方、現在の県道47号・守谷流山線の付近は、それより遥か昔、中世より存在する街道であったことが知られています。この街道は根戸(千葉県柏市根戸)で分岐し、布施(千葉県柏市布施)と戸頭(茨城県取手市戸頭)の間で利根川を渡り、守谷(茨城県守谷市)へ向かいます。この街道は現在は「守谷道」の名称で呼ばれています。また、この道が利根川を渡る渡船場は「七里ケ渡し」と呼ばれました。江戸幕府は軍事的な意味から、主要な河川に橋は架けませんでした。利根川も例にもれず、水戸街道・守谷道いずれも渡し船により人々の往来が行われていました。

江戸時代には、守谷道は参勤交代にも使われ、享保15年(1730)には、この道が小張・谷田部を経由して土浦まで開通し、水戸街道の脇道としてさかんに利用されるようになりました。このあおりを受けて本来の水戸街道は人の往来が減少し、沿道の宿場町はさびれてしまいました。そのため、宿場町の荒廃が武士の水戸街道の通行に支障をきたすのを恐れた水戸藩が、商人たちに守谷道の通行を禁止する通達を出したほどです。

このように七里ケ渡しは、利根川を渡る要衝の地として永く人々の往来を助け、両岸の布施・戸頭の両村は大いに繁栄したのです。

参考資料

現代の「七里ケ渡し」、新大利根橋有料道路(県道47号・守谷流山線)

新大利根橋の遠景

利根川の堤防から新大利根橋を望む。

あまりに長大な橋なので写真に収まりきらず、この写真は橋全体の3分の1程度しか写ってません。

県道47号
新大利根橋の上から見た現在の県道47号。通行料金は普通車200円。

エピソード2: 飛行船SS三号の墜落

殉難碑
もくせい公園内にある「殉難碑」

県道47号・守谷流山線(旧道)から横に入り300メートルほど、取手市戸頭の戸頭団地の中に「もくせい公園」という小さな公園があります(このページの先頭に載せた地図に位置を示しました)。一見何の変哲もない公園で、普段は戸頭地区の子供たちがキャーキャー言いながら遊び、近所のおばちゃんたちが井戸端会議をしている場所です。

この公園の片隅に、ひっそりと石碑が建てられてあります。注意して歩いていないと気付きにくいかも知れません。これは大正時代に飛行船「SS三号」が墜落したことを記した殉難碑です。歴史をひもといてみましょう。

大正時代、日本海軍は飛行船を何機か保有していました。飛行船には「SS」(エスエス)という頭文字が付けられていました。これはサブマリン・スカウト(潜水艦探査)、またはシー・スカウト(海上探査)のことだといわれています。大正9年1月にイギリスのピッカーズ社から購入したものが最初で、「SS一号」という名が付けられましたが、この飛行船は大正11年に横須賀海軍航空隊の格納庫内で自然爆発を起こし全焼しました。「SS二号」は同年フランスのニューポール・アストラ社から購入したものです。そしてSS一号をモデルに海軍は独自の飛行船を建造しました。それが「SS三号」です。

大正13年3月19日、飛行船SS三号は霞ヶ浦海軍航空隊の基地を飛び立ち、横須賀で演習を行いました。演習を終えたのち、霞ヶ浦基地へ帰航する途中、午後0時50分頃、稲戸井村(現・取手市)戸頭の上空で突然に空中爆発を起こし、猛火に包まれつつ墜落しました。飛行船には次の5名の隊員が乗船していました。

稲戸井村の村民らは、まっさかさまに墜落する飛行船を見てすぐに馳せ集まり、隊員を救助しようとしましたが、猛烈な火炎の前になすすべはありませんでした。しばらくして霞ヶ浦航空隊の救援隊が到着し、近隣の村民らと共に猛火を冒して飛行船の中から隊員5名を発見しましたが、船体は焼失激しく、5名は既に殉職を遂げていました。

殉職軍鳩之塚
隊員とともに殉職した伝書鳩の塚

SS三号墜落の翌日(3月20日)から、事故現場は見物人でごったがえす状況となりました。単なる野次馬もいたでしょうが、中には賽銭をあげる人も多く、3月26日には戸頭青年会が賽銭箱を設置したといわれています。これと前後して、3月25日には約1000人が集まり追悼会が開かれました。

しばらくして、近隣住民の間で殉難碑建立の動きが高まり、村長・学校長・青年会などが中心となり募金をつのりました。殉難碑建立の予算は千円であったといわれています。

住民らの努力が実り、ちょうど1年後の大正14年3月19日に「殉難碑」が建立され、4月に除幕式が行われました。殉難碑の碑文の一部には「五氏の壮烈なる殉職を後世に伝えんと欲し…永く五氏の忠魂を弔う」という記載が見られます。当初は墜落した現場に建立されたが、その後戸頭団地の造成事業のために現在は同団地内のもくせい公園に移設されています。

なお、殉難碑の右隣には大正15年に建立された「殉難紀念碑建立の由来記」、また左隣には、墜落時に隊員5名とともに殉職した軍用伝書鳩の霊を弔う「殉職軍鳩之塚」が置かれ、この出来事を現在まで伝えています。

参考資料

  1. 飛行船SS三号の殉難碑の碑文(取手市戸頭・もくせい公園内)
  2. 「取手市史 通史編Ⅲ」 取手市教育委員会発行(1996年) pp.368–371

エピソード3: おまけの話

県道守谷流山線(旧道)ぶらり旅を実行した約十日後、2002年7月10日夜から11日未明にかけて、日本を台風6号が襲いました。茨城県でも利根川を含む主要河川が増水しました。

台風6号が通過した直後、私は利根川がどのくらい増水しているのか、その様子を見に行こうと思い、再び守谷流山線(旧道)の末端を訪ねてみることにしました(もちろん安全には十分留意して)。

再び守谷流山線を訪れ、先日と同じ道を歩きました。そしたら…。

冠水した県道47号(旧道)

末端までたどりつけませんでした…。

県道47号(旧道)は前掘橋の付近で完全に冠水。この増水している川は利根川ではなく、支流の大野川という小さい川です。県道の末端である利根川の土手はこのはるか先です。

付近の人々がたくさん様子を見に来ていました。犬までもが様子を見ています。

普段の前掘橋
先日訪れたときに撮影した普段の前掘橋。
台風通過直後の前掘橋
台風通過直後の前掘橋。この先の道は完全に川と化していた。

以上、余談でした。(おわり)